インタビュイー:亀山 努(かめやま つとむ)

元プロ野球選手。阪神タイガースで外野手として活躍。現在は、指導者としてリトルリーグ世界一に導く、。また、解説者としても活躍するなど、幅広く野球界に貢献している。


本日は、元阪神タイガースで、亀新フィーバーを巻き起こし、現在は、解説者やリトルリーグ世界一など、幅広く野球界に貢献されている亀山努さんにお話をお伺いしました。
よろしくお願いたします。

早速ですが、亀山さんの野球人としてのキャリアを簡単にお願いします

大阪枚方リトルリーグで小学校3年から始めました。祖母が倒れた事情で、小学校6年の2学期からは奄美大島へ転居し、地元の中学校の軟式野球に3年間。そこから、鹿屋中央高校に双子の二人で野球留学。高校時代の最高成績は2年の秋で、九州大会ベスト8。その後阪神タイガースから声がかかって、87年ドラフト会議で阪神タイガースにドラフト外で指名していただいて、そこから10年タイガースでプレーしました。

リトルリーグ時代から、ポジションは一貫していましたか?

リトルリーグ時代は、実はサードとピッチャーでした。ピッチャーは、まあ3番手ぐらいでしたけど。中学校は、最初はサード、そこからキャッチャーです。ピッチャーだった弟の球を受ける人がいなかったので、双子で入れ替わって投げると。
高校入って、1年の夏は4番キャッチャー、2年が3番ショート、3年が1番サード。これ出世してんのか、降格なのかっていう(笑)打順は前にいってんねんけど、降格やんなって話をしてんねんいっつも。

バッテリー以外どこでも守れるっていうのはたまに聞きますけど、バッテリーを含めてどこでもっていうのはすごいですね(笑)亀山さんが9人で野球ができます。

プロに入られて1番最初はどこを守られたんですか?

3塁手。内野手ですね。サードとセカンドを練習していたものの、1年目秋から、途中ぐらいから外野やりだしたんかな。3塁手として阪神に入団してきて、全員ノックみたいなのがありますよね、球団で。プロに入るまでは、どのチームでも2番目か3番目にはいたんですが、プロに入ったら6番目ぐらいのポジションですね、1・2軍全員集めると。
で、自分の前にいる人見たら、1番は掛布さん、で代打の神様八木さんがいて。と並んでるわけですよ。果たしてこの人抜けるかと。たまたま掛布さんが、僕の1年目だけ2軍におられたので、食事会のときに話を聞いたら、「お前はどういう評価で阪神に入ってきてん」と。でまぁ、「走・攻・守、3拍子が売りで入ってきました」と答えたらね、「この世界で3拍子揃っているのはドラフト2位か1位や」と。「お前の3拍子は相当程度の低い3拍子や」と。この世界で生きていくには、3拍子じゃなくて、なにか1拍子で良いから秀でたものを見つけないと生きていけないよって。そんなことを言っていただきました。
それでいうと足は速かったのと、雑であるけど肩は強かったのね。それを生かそうと思ったら外野かなぁっていうことでまあ外野手をさせてくださいと。
ただ結局3年目の途中ぐらいまでは内野手登録でした。2軍コーチの長尾さんに「外野さしてください」お願いしたら、「お前は外野を練習してもいいけど、チームとしては内野手としてとってきてるんやから、外野手もやりながら内野手の練習もしなさいよ」と。だからまあ必然的に練習量も倍になっていきますよね。

勝てるポジションでやっていく、という選択。

当然。とりあえず勝負できるところが足と肩かなっていうので、そこを選択しました。19歳のときの選択でした。
まぁその年に掛布さんが辞めると思ってないし、自分の1年前に八木さんが入団してるわけやから。で、自分の同期のドラフト2位で高井っていう選手がいたんだけど、これは横浜高校。自分がキャンプに行ったときに、外野手で入ったはずの高井が、なぜかもうサードやってたの。ドラフト2位がサードやってるわけですよ。ドラ3とその高井だけが一軍宿舎で、あと全員タコ部屋みたいな2軍の施設。これどう考えても、主体的に次の選択肢を考えることが必要になってくるよね。

1年目でやりたいポジションとか、球団が期待をかけてくれたポジション以外で、ご自身が勝てるポジションを探してきて選択するっていう決断が出来る選手はなかなか多くはないのでは?

私は、やりたいポジションよりは生き延びれるポジションっていうのがまずありました。

当社が日頃接している就職活動中の大学生でも、この仕事がやりたい、これ以外はやりたくない、という考え方を持っている方もいるんですが、自分の強みを生かして生き延びれる仕事をするという視点も持ってほしい。亀山さんが、外野手という選択をしてなければ、あの亀新フィーバーもなければ、失礼ですが数年でクビになっていたかもしれない。

これをやりたいというのを選択できる実力が自分にあればともかく、選択するレベルにないのであれば、まずはそこのチームで野球をすることが大事。そこで力を付けられれば、自分には選択する力がありますよって言えるかもしれない。
究極、野球が好きなのか、嫌いなのか、と問われたら好きなわけで、野球に携わる仕事がしたいのか、したくないのかって考えたらしたい。そう捉えたら、野球のプレイヤーだけじゃなく、マネージャーや記録員も含めて様々な選択肢がある。どうにかして野球に携わりたいかということで悩むのに比べたら、ポジションを変えるということは小さな選択。プレイヤーとしては生き残れるわけだから。僕の中ではそんなに苦渋の選択ではなかった。
そういう風に割り切れたのは、家庭の事情で奄美大島に引っ越して、野球を全然やったことがない子を巻き込んで、最小限の人数でも野球ができる喜びを感じることができた経験が根底にありますね。

話は変わりますが、亀山さんはプロになられなかったら、餃子の王将に就職しようと思ってたんですよね、ウィキペディア情報ですが。それは本当ですか。

本当です。調理科なんでね。調理師の免許を持っています。少し補足すると、弟と僕は、試験を受けてスポーツ特待で高校に入る予定だったんですが、野球部の中では成績が良い方だったので、二人とも学業特待生だったんです。なので我々二人を学業特待で獲得したら、スポーツ特待の枠が2つ空くわけです。
私学なんかも、スポーツコースや体育科の子は、5時間目から野球の練習でしょ。僕ら普通に6時間授業やってましたから。今でいう学業との両立をしていたことは自慢です。

プロを引退されてから、自分が小学校のときにプレーした枚方リトルの監督をなさったのは、意図されていましたか?

引退後は少しゆっくりしようと思っていたら、たまたま小中学校時代の恩師から電話がかかってきて、「お前暇やろ、クビなって暇やろ」て。恩師とはいえ、枚方の柄が悪いおっさんやから、そんな物言いでしたね(笑)小学生、暇なら見てくれやと。
ただでさえ子供らが減ってきて、そこへその監督はバチバチといくような昔の監督やったから。で、選手が減ってきてるから。元プロの亀山がおるだけで、客寄せになるからって。

ボランティアですか

リトルリーグはボランティアです。ボーイズとかヤングは収入あるけど。リトルリーグは基本的にアメリカのボランティアのというスタイルなんで。報酬は受けられないです。
そんな中で、想いだけで引き受けているようなもんですが、野球をプレーする子供たちの親御さんには、もっとサポート面を勉強してほしい。プロ野球を観て、お酒を飲んで、やじっている話はいらない。もっと上手くなるためにどういう練習がしたい、故障とか治療に対して体のメンテナンスがしたいと子供が訴えた時に助けてあげられるように、そういう施設や指導者、先生を子ども以上に調べてサポートするっていうことが一番大事だと思います。
お父さんへは、「もっとインコース脇締めてな」とか「もっと振らんかい」と言いたくなる気持ちはわかるけど、それは指導者がやることだから。気持ちを押し殺して一生懸命応援してほしいです。
お母さんは、野球の知識がない人が多いけど、プロ野球とか高校野球をみたり、野球を知ってるお父さんから聞いたりして知ってください。その中で、どういう物を食べれば、効率よくエネルギーが発揮されるのか、試合終わりにどういう物を食べれば回復しやすいのだろうか、興味を持っていただきたいと思います。

餅は餅屋。野球のことは、あくまで指導者が指導する。

そういうこと。保護者だけでなく、OBクラブもそうだと思う。周囲が協力して、良い指導者、良い指導を作り上げていきましょうということを日々努力はしています。

これから野球を始めよう、子供に野球を始めさせようという方々に、良い指導者の見分け方を教えてください。チームを見に行って、どこにしようかなってなった時の見極めポイントは?

一番わかりやすいのは「すぐ申込書をもってこない指導者」。うちのチームでは、練習に参加した子供が何日か続けることが出来て、その上でおもしろい、やってみたいと言ったら、初めて申込書を書いてくださいって保護者にお伝えします。チームが増えて、野球人口は減っているので、是が非でも自分のチームに入れたいって指導者がほとんどですね。
入るまではどこのチームもお客さん扱いで優しく接してくれるけど、入った後は厳しい。そこで辞めるって子供が言い出したとき、「自分でやると決めたことでしょ。頑張んなさい」ってお父さん、お母さんが言って突っぱねられるかどうか。

辞めたい、辞めないの選択の話がありましたけど、亀山さんがプロ野球を引退し、阪神を退団することを意識したタイミングと、その理由を教えてください。

1995年、腰の横突起骨折したときかなぁ。怪我で、思うようなパフォーマンスが発揮できないし、ストレスも溜まっていました。92年活躍したじゃないですか(編集注:新庄と亀山さんは、外野を編成し、亀新フィーバーとして活躍)。でも、93年に肩の脱臼で離脱して、やっと94年に復帰したんです。それなのに、95年には腰を折ってしまった。
前回の肩の脱臼でも6月に負傷して、残りのシーズンを丸々棒にふりました。横突起骨折のときは5月だったので、またかと思うとともに、これでもう自分のパフォーマンスは落ちるだろうなと感じました。そこからは右投ピッチャーのときだけとか、代打でとか、限られた場面に絞って役に立つことを目指してやりました。いつ切られてもおかしくない状況だろうなと認識しながら、96年のシーズンを迎えましたね。監督も中村監督から藤田監督に代わった時で、あらゆることを思い切り変えようとした時なので。

プロになるまでに野球を辞めようと思ったことは?

正直、結構ある。ただ、昔は部活を途中で辞めてしまったら学校で笑い者になったよね。あいつ辞めよったで、と。だから、毎晩寝る前に、明日起きたら51%辞める49%続けるって決めて寝るのに、翌日になったら51%続ける、49%辞めるに変わってた。
結局僕らは野球が好きだったんじゃないかな。好きだったし、ファインプレーとかヒット打ったシーンが忘れられへんのやろな。昔はスポーツ界も野球が中心に回っているような部分もあったように思うし、野球できる出来るやつはできるやつみたいな空気があったので、それを辞めることは考えられなかったのかな。

仕事に置き換えても、若者の早期離職が騒がれる一方で、これがあるからこの仕事を辞められないんだよなってことを見つけてほしいと思いながら、私たちは学生のキャリア支援を続けています。

私は社員がやりたい仕事をやらせてあげたいって言うのが原則あって、そうすると思い悩んだり、上手くいかなかったりする時にも、自分でやりたいって言ったんでしょと背中を押すことが出来る。ってあるかなと思ってます。ただ、冒頭で話に出ましたように、やりたい仕事よりも価値を出せる仕事、生き残れる仕事をやれって考え方とは少し矛盾しますかね。

やってたらやってたで、段々面白くなってくると思うんですよ。最初は僕も、外野なんて下手くそが守るところって思ってましたもん、正直。それは間違いでしたけど。
最初は新庄も守備が下手でしたから。ただ段々と守備に興味持ってくれて、守備を非常に考える選手になった。

このインタビューも終盤に差し掛かってきており、もう1~2点だけお伺いしたいのですが、引退後のセカンドキャリア問題はどのスポーツでもあると思うんですけど、亀山さんは引退後もとてもご活躍されている方だなと思います。ケガで引退を意識されてから、セカンドキャリアに向けて具体的に動かれてたこととか、意識されてたことってありますか?

正直に言えば、僕はまったく何も考えてなかった。だから今、こういう会社(スポーツフィールド)があってよかったって。すばらしいと思います。

でも、実際それでどのように今のような成功というか、お仕事を掴んだんですか?

引退して、「野球もうええわ、しばらく。」と思ってたところで、高校野球で高校からプロに入って野球しかしてなかったので、28歳でやめました、高卒の18で社会に出るのと、28歳で10年遅いけど、感覚は一緒やと。なんで、まず、いろんな社会のシステムを分からなあかん。ということで、お金もらわなかったんだけど、知り合いの会社に3ヶ月くらいかな。色々教えてもらいには行きました。

元プロ野球選手が、お金もらわずに、ただ働きをしたということでしょうか?

そうです、一切もらわずに働きました。阪神の現役時代にお会いしたのは大企業の部長より上ばかりです。実際ほとんど、社長か会長ですね。そういう組織・役職は知ってんねん。でも、そこの組織で社長より役職が下にいる人間っていうのを全然知らないわけです。って考えた時、プロを引退して1からスタートするのに、このコーヒーは誰が出してくださってるのかっと言うところから考えて、会社という組織体の全てを知らずして、この社会には適応できないんじゃないかと思ったことがきっかけです。
もう、最初は複数回線の電話なんてわからないわけですよ。これ15番ですって、わからへん。15番てなんや。たくさん電話があって何番ってあって転送するじゃないですか。あんなん、引退したばかりの選手にまるでわけがわからないわけですよ。コピー機の使い方もそう。何部?って聞いて、100部!部数を指定してボタンを押せば、100枚のコピーが出てくるってあとから知ったけど、1部ずつ100枚もコピーするの!?って思った。だから知り合いの人に教わりながら、社会でるのって大変なんだなと理解した。
そしたら、たまたまリトルリーグの指導に来いっていわれて、ラジオにも呼んでもらえて。
最初はサンテレビの歌番組に、トークのゲストで行ったら、この番組もせぇって言われて、カラオケ番組の司会をやらされて(笑)色々やってみるって面白いな、と。温泉のカラオケで司会やってたわ。
そしたら毎日放送で、新庄がアメリカに行くんで付いていくってなって、アメリカへ。その辺から、徐々に野球の話をいただけましたね。いやー、ほんまに運が良かったよね。結局最後に新庄に助けれられたかもしれんね。

野球界で現役引退後も、解説、タレント業も含めて、野球界というメディアの世界にずっと残られる方は運もあると思いますが、具体的にはなにが違いますか?

まず、ある程度プロ野球界で成績を残した人じゃないと仕事を斡旋されない。
基本的には、引退したときばかりの時は、どんな選手もどこかしらに名前が挙がってくる。ただ、そこから仕事で関わった方への感謝の念の示し方や、態度とかがじわじわ効いてくる。5,10,15年って経つと、以前関わった若いADさんがディレクターやプロデューサーとかに昇進している。そうすると、彼らの若いころに横柄な態度を取っていた人は、その時に切られてしまう。最後は人対人。
俺はほんとラッキーだったよ。引退後に球団から解説者としての仕事を斡旋してもらえたわけじゃない。最初は何もなかったよ。だからリトルリーグ、地元OBクラブには呼んでもらえたけど、タイガースのOB会にはよばれてなかった(笑)指導していたリトルリーグが世界一になりました。ってなってから、OB会にも呼ばれるようになったんよね。

そういう意味ではボランティアでやったリトルリーグの指導者もセカンドキャリアの一つ?

そう。俺、現役のときは問題児だったからね。そのイメージを浄化してくれたのがリトルリーグだったかもしれない。ちゃんとやってるやん、って言ってもらえるようになった。だから、何一つとしてええ加減なことはできませんな~と思いながら生きてるね。

最後に、今現役でスポーツをやってる学生に向けて、スポーツの現役生活を終えて社会人になるときに伝えたいことはありますか?

一つだけ言えることは、自分はこんなもんだっていう線引きはしない方がいい。壁に跳ね返されることがあるかもしれないけど、そうなったときに何をすればいいかと見えてくるので、失敗を恐れずに色んなことに挑戦してほしい。だって学生が社会に出るのって、22歳でしょ?俺、28からスタートしているわけだから。
今考えると、28でプロ野球をやめてよかったと思う。30超えてたら、プライドが邪魔して頭を下げられなかったかもしれない。20代のうちにユニフォームを脱げたことが、2年間人に教わろうという気持ちにつながり、それは自分に大きなプラスになっていると思う。

スポーツやってきた学生が、プロを諦めて就職することが多い。でも、そこまでスポーツを一生懸命やってきたこと自体を誇りに思ってもらえるようなコメントをいただけますか?

いままでやってきたことは決して無駄じゃない。必ず積み重ねてきた分頑張れる。あとは若いから、頑張り方がわかってないだけ。頑張り方を知るために、色んなチャレンジをしてほしい。やり方は、一通りじゃないから。自分の思考、考え方を変えれば、360度どこからでもアプローチできるはずなので、柔軟な頭をもってチャレンジしてほしいなと思う。
それと、高卒の自分でも出来たからできると思う。高卒だからね。

亀山さん、本日は本当にありがとうございました。今後も末永いご活躍をお祈りしております。

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